大虫神社と伽藍の残像

2026年の初詣は、福井県越前市の「大虫神社」にお参りしてきた。
この神社は、1000年以上の古い由緒を持つ「式内社」である。

「式内社」は、奈良・平安時代の政府によって重要視され、国の祭祀に参加するよう選ばれた神社のことである。
この大虫神社は、その中でも特に重要な「大社」とされていた。

「大社」は大社というだけあって、現代でも大きな神社として残っている場合が多い。
越前の大社は、他には「気比神社」(現在の気比神宮)しか存在しない。

この大虫神社も、かつては大規模なものであったらしいが、現在は気比神宮などと比べると、かなりこぢんまりとしている印象を受ける。
それは、この神社がもともと持っていた役割に背景があると思われる。

大虫神社が存在する「丹生郡」の他の式内社の名前をみると、「小虫神社」や「佐佐牟志神社(ささむしじんじゃ)」など、虫に関する名前が多い。
その背景には、774年、780年に当地を襲った災害である、ウンカ(稲虫)の大発生がある[1]。
この虫は稲を枯らしてしまう害虫であり、現代でも農薬を使わない地域では大量発生することがある。

土地の生産力も、稲の品種も、現代とは比べ物にならないほど脆弱だった古代において、それは恐ろしく破壊的なものだったに違いない。
虫に関する式内社は、この災害を何とか鎮めるために作られたものである。
大虫神社が大社になったのも、その被害の大きさと、それに対する復興政策によるものと思われる。

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この「大虫」地域は、越前国府(現在の越前市街)の西方に位置し、古代の官庁が集中した地域らしい。
「大虫廃寺」という古代寺院の跡も存在する。

こうした古代寺院の建設は、現地を治めていた豪族たちによって担われた[2]。
大陸からの新技術によって建設された壮大な寺院の伽藍は、現地の人々にとって驚異的な姿だっただろう。

大虫廃寺は、「国分寺」(=735年に聖武天皇が建設を命じた地方寺院)の有力候補ともされている[3]。
国分寺は、全国的な疫病の大流行に対して、仏教による人々の救済を目指すためのものであり、奈良の東大寺の大仏造営とも並行していた。
ここにも、災害に対して宗教が果たす役割の大きさと、それを活用する政府の努力を見ることができる。

発掘調査によって出土した大虫廃寺の塔の基壇や柱の礎石は、現地にそのまま保存・公開されている。

この塔を除くと、大虫廃寺の遺構はほとんど出土しておらず、現在は福井村田製作所の大規模な電子部品工場が建設されている。
遠目に見るその姿からは、当時の先進技術を結集して建設された寺院の大伽藍が想起された。

記録や記憶の中から情報が消え去ったあとも、景観の中に過去と現代の不思議な符合がみられることは時々ある。

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話を神社に戻すと、大虫神社はもともと、現在地よりも西方にある「鬼ヶ岳」の山頂に鎮座していたらしい[4]。
これは、この山地が害虫の発生源であったことに由来しているという説もある[5]。
山の祟りを祈祷によって鎮める目的があったというわけだ。
このことは、環境と信仰との関係を考えるうえで興味深い問題であるが、ここでは単純に、この「鬼ヶ岳」の位置に注目したい。

鬼ヶ岳と大虫廃寺は、東西の方位軸に沿って、綺麗に一直線上に立地している。
古代の国土計画には、「条里制」という直行グリッドが用いられており、寺院や神社の配置もそれに従う場合がある。
そのため、こうした配置は計画的に行われた可能性がある。

この鬼ヶ岳の山頂は、大虫廃寺の伽藍のあった村田製作所からもよく見ることができる。

大虫神社は、これら平野部にある寺院や官庁、そしてその周囲の村々を見下ろす場所に位置していた。
そしてそれは、人々から見上げられ「遥拝」される対象でもあったのだろう。
大虫神社と大虫廃寺は、神祇と仏教が一体となった信仰の軸を形成し、害虫=山の祟り から都市や人々を護る役割を持っていたのではないだろうか。

厳しい自然環境の中に人が生きるうえで、必ず遭遇する「天災」とその記録。
政府や住民たちが、いかにしてそれを乗り越えるべく、復興と再生のための事業を行ってきたか。
そうした活動の履歴が、風景のなかにぼんやりと浮かび上がる古代空間のデザインの中に息づいているようである[6]。

(2026.01.07)

  1. 『式内社の研究 第8巻 北陸道』、志賀剛、雄山閣、1985年、pp.57-59 ↩︎
  2. 6世紀半ばに仏教が伝来してから100年ほどは、奈良周辺でのみ寺院が建てられていたが、大化改新(645)以降、地方でも多数の仏教寺院が建設されるようになる。
    『古代寺院 新たに見えてきた生活と文化』、吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編、岩波書店、2019年、pp.1-22 ↩︎
  3. 『大虫廃寺・野々宮廃寺 発掘調査概要報告』、福井県武生市教育委員会、1990年 ↩︎
  4. 『式内社調査報告 第十五巻 若狭国・越前国』、式内社研究会編、皇学館大学出版部、1986年、pp.276-279 ↩︎
  5. 前掲 志賀(1985) ↩︎
  6. 古代から現代まで、アクターを変えつつも連続性を有する(ように見える)空間利用は、いかなる原理に基づいているのだろうか。それを適切に記述できる枠組みは現在のところ存在しない。古代の国家・都市のプランニングは非常に明快な図式的思考に基づいている場合が多いため、それを復元するには「建築家の眼」が必要となるし、通時的変化の分析には「歴史家の眼」が必要となる。歴史学においては、歴史地理学における「景観」の機能や意味をもとに、その動態を分析する「景観史」の思考法が有用と考えられる(『景観史と歴史地理学』金田章裕編、吉川弘文館、2018年 など)。 ↩︎